大正十三年(1924年)、新興芸術運動にかかわった作家たちが集まって結成された組織。政府主催の官展から分離した二科会、そしてさらに新しい芸術表現を求めた意図が「三科」というネーミングに見ることができる。会員には、村山知義や柳瀬正夢ら〈マヴォ〉のメンバーをはじめ、〈未来派美術協会〉の木下秀一郎や、〈アクション〉のメンバー、神原泰などがおり、1925年には、前年に開店したばかりの百貨店、銀座の松坂屋にて展覧会を行なった。そして、この展覧会のパフォーマンス版ともいえるのが、これもまた前年開場したばかりの築地小劇場で行われた「劇場の三科」である。村山知義が自らの回想録の中で、「劇場の三科には、アングラから不条理劇、ハプニングにいたる全てが含まれていた」と述べているほど、非常に新しい表現が繰り出されたが、「三科」自体はさまざまな団体の呉越同舟であり、1925年上野自治会館での第二回の展覧会で会期を全うしないまま空中分解をすることになった。 各方面に配布すべく印刷された「三科・規則」によると、会員としては浅野孟府、ブブノーヴァ(ブブノワ)、神原泰、木下秀一郎、松岡正男、村山知義、中原実、岡本唐貴、大浦周蔵、渋谷修、玉村善之助、矢部友衛、柳瀬正夢、吉田謙吉、横井弘三が名を連ねている。 |