社会主義リアリズム
1932年、ソヴィエト政府は一切の芸術団体を解散させた。その後結成されたソ連作家同盟は「ソヴィエト芸術文学および文学批評の方法」を採択。ソヴィエト政府のイデオロギーや人々の共感を呼びやすい(労働や人情に訴えかけるような実際的な生活に密な)内容をあらわすものだけが政府公認の芸術とされた。哲学的、「真に芸術とは何か」などと考えていた前衛作家たちの芸術思想は、政府にとっては無用のものとなりそれまでの前衛芸術を「フォルマリズム(形式主義)」として批判。1937年のスターリン粛清の命題としても掲げられる。その後、1970年代まで〈社会主義リアリズム〉は芸術の分野を支配することになる。
1920年代ーロシア
1917年の革命以後、戦時共産主義体制をとっていたソヴィエト政府は、革命の正当性やその社会主義思想を広めるためプロパガンダとしての役割を芸術に求めていた。1921年、レーニンがネップ(新経済政策)を導入すると市場経済が一部可能になり私企業が市場を主導し始める。革命後の気運も平和路線へとすすんでいく中、人々の新たな生活建設を考えるマヤコフスキー、ロトチェンコらは構成主義の雑誌『レフ』を創刊。生産性の向上、増産といった政府の考えが構成主義の生産主義という考え方と重なり、国営企業はアヴァンギャルド作家にポスターや工業デザインを依頼する。1920年代半ばのロシアは、ソヴィエト政府と前衛へとむかう芸術家たちの関係性が最高潮に達した時期といえる。しかし、スターリン体制がすすむにつれ、さらに1937年スターリンの粛清の嵐が吹き荒れるとロシアに留まるアヴァンギャルド芸術家たちは粛清されるか、〈社会主義リアリズム〉へと向かわざるを得なくなっていく。
ロシア・アヴァンギャルド
ロシアで19世紀後半から1930年代ごろまでの前衛芸術運動をさす。芸術の純粋な自律を目指し、詩、美術、音楽、建築、映画、そして演劇などが前衛へと向かう。過去の伝統と決別し、真に純粋性を求めていた。詩人フレーブニコフはザーウミ(超意味言語)と呼ばれる既存の言葉と意味を切り離し、意味性を超えた真に音の連なりによる詩を発表。ザーウミが当時のロシア・アヴァンギャルド思想に及ぼした「純粋性」という影響は大きい。ロシア構成主義の創始者タトリン、スプレマティズムの創始者マレーヴィチは真に自律的な作品を発表する。そのような急進的な芸術家の前衛志向は、1917年の十月革命を機に政治と歩みをともにしていく。当時の多くの芸術家はこの革命に期待を寄せ国立の芸術学校や研究所などの要職に就き政府にかかわる。しかし、秩序の成立をめざす政府は次第にアヴァンギャルド芸術家を危険因子とみなしなじめる。32年に〈社会主義リアリズム〉が採択されアヴァンギャルド芸術家は自由な創作が許されなくなる。政府と蜜月を迎えていた前衛芸術はついに37年スターリン粛清により一掃される。 代表作家として詩人のフレーブニコフ、構成主義のタトリンやロトチェンコ、スプレマティズム(無対象主義、純粋絵画)のマレーヴィチ、音楽ではマチューシン、スクリャービン、演劇ではメイエルホリド、映画ではエイゼンシュテイン、建築ではメーリニコフなど。
ロシア構成主義
構成主義もまた、始めの段階では芸術の自律性を求めていた点ではマレーヴィチと同じであった。1915年12月、レニンングラードで最後の未来派展覧会《0,10》が開催された。ロシア構成主義の創始者タトリンは、金属、ガラス、木材など工業製品を使用した作品「反レリーフ」を発表し、この展覧会でスプレマティズム(無対象絵画、純粋絵画)を発表したマレーヴィチと袂をわかつ。十月革命後、ポスター、映画、建築、舞台美術、デザインなどの分野で実験をかさね、1921年「芸術を生活の中へ」をスローガンに生産主義や有用性を重要視するようになる。
演劇の分野では、構成主義的な舞台装置や衣装が取り入れられ、美術、音楽、脚本、演出という総合的な芸術でユートピアを顕在化させた。ポポーヴァが『堂々たるコキュ』、ステパーノヴァは『タレールキンの死』で舞台美術を担当。ロシア構成主義グループとしてアレクセイ・ガン主唱の〈構成主義の第一労働グループ〉やマヤコフスキー、ロトチェンコが結成した〈レフ(芸術左翼戦線)〉がある。
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